清流

 両脇に軒を連ねる小径を通り抜けると、小さな神社がある。小さいと言っても、境内の奥には森が続いていて、 地元の子供たちにとっては、いい遊び場だった。男の子たちは木に登り、時には虫かごと網を持ってきて 虫取りを楽しむ。女の子たちは綺麗な落ち葉や木の実を拾って、おままごと遊びの材料にしていた。

 そして、森をさらに奥へ進むと、川が広がっていた。川幅は5メートルはある比較的に大きい川なのだが、 底は浅く、子供たちの足でも膝の高さだった。

 男の子も、女の子も夏になると、服を着たまま、川で水遊びを楽しんだ。ここは住宅地とは反対側になるので、 どんなに叫んでも大人たちに怒られることはなかった。

 ほのかは、子供時代を懐かしく思い出しながら、神社の境内をゆっくりと見渡した。少女だった彼女も 今では、30歳となってしまった。仕事柄、海外で過ごすことが多く、日本へ帰ってきたのもつい3日前だった。

 ほのかは、一歩一歩、日本へ帰ってきた事を実感するため、踏みしめるように境内を歩いた。 初詣では必ずおみくじを引きに行った社務所も今は人影がない。境内全体がひっそりとして、 真夏だというのに、ひんやりとした空気が流れている。
 それも、ほのかにとっては心地よかった。海外で過ごした慌ただしさ、空港での人の行き交い、どれもが 当たり前に過ごしてきたことだったが、今は忘れていたかった。

 ほのかはさらに足を進め、森へ入る。近くの木にセミが居たのか、急に鳴き始めた。 ほのかは思わず、身を屈める。小学生の頃、セミにおしっこをひっかけられて以来、セミの鳴き声の下を歩くときは 警戒してしまう。

 ほのかが帰ってきて、まず日本を感じたのが「蚊取り線香」のにおいだった。 昔から父親は、蚊には「蚊取り線香」しか効かないと思いこんでおり、夏になれば、必ず「蚊取り線香」を用意していた。 一度、海外にまで送ってきたことがあり、現地のスタッフはこの不思議な渦巻きに興味津々だった。 ある時、スタッフの家を訪れると「蚊取り線香」が何かのオブジェのように、家中に吊されてあるのを見てしまった。 この時ばかりは、何事にも動じないほのかも、絶句してしまった。

 川にたどり着いた。20年前と変わらず、川は水を絶やさず流れていた。近隣の川の土手がコンクリート化されている中、 ここの川は変わらずに残っていた。しかし、子供たちの姿はなかった。

 ほのかは、夏になると毎日のように訪れていたこの川を見た途端、なぜか涙が止まらなくなった。 理由は分からない。分かろうとも思わない。ほのかは川が見えなくなり、その場にしゃがみこんだ。

 一時間ほど泣き続けていた。いつしか流れる涙も乾いてしまい、ほのかはすっと川の水をすくい、顔を洗った。 ひやっとした水は全身を通り抜けるようだった。今度は、サンダルを脱ぎ、足を川へ入れてみる。

 一気に、小学生の頃に戻った気分だった。男の子たちが水のかけ合いをしているのをこうやって土手で川に足を付けて 眺めていた。始めは笑って見ているのだが、その内に男の子の一人に水をかけられ、気付けば自分も川に入って 水をかけ合っていた。ほのかは、目の前にそのままその光景を思い出し、思わず笑みを浮かべる。

ガサガサ・・・背後から足音が聞こえた。無防備にしていたほのかはビックリして後ろを振り返る。
「うぁ〜ビックリした。人がいる。」そこには、年の頃20代前半と見える長身の青年が立っていた。
「こんな所にいるって事は、地元の人?・・・でも、見たことないなぁ」初めて会ったというのに青年は 気さくに話し始める。
「地元だけど、もう10年振りになると思うわ。」ほのかは泣き顔を見られまいとハンカチを取り出して 顔を拭きながら答えた。
「ふ〜ん。じゃぁ、俺と入れ違いだな、俺は中学の時にここへ引っ越してきたから。」そういうと彼はジャブジャブと 川の中に入っていった。

「な、何をするの?」ほのかはビックリして立ち上がった。
「これ」と言って、青年は藍色に染まった大きな布を広げて、川へ投げ入れた。
「藍染め。今勉強していてさ・・・」布は、川の流れに沿って揺らめいている。 ほのかは藍色に染まった布を見つめているうちに、心が洗われていくのを感じた。

「綺麗な藍色ね。」ズボンが濡れていてもお構いなしに、しゃがみこんで布を見ている青年に声を掛ける。
「だろ?今までの中で、一番の出来なんだ。」青年は無邪気に喜ぶ。
「ほらほら、こっちにきて見てみなよ!」青年はそういうと、強引にほのかを川の中へ引っ張った。

 水しぶきが二人を包んだ。全身ずぶぬれになった二人は顔を見合わせて笑い合った。

おわり・・・